ユリの教会
引っ越しをした。荷物を全部運びこむと、ちょっとほっとして、近所を散歩することにした。どんな町だろう。てくてく、てくてく。新しい家のそばには小さな川が流れている。せせらぎの音も聞こえないほど、小さな川だ。川の流れをさかのぼって歩いていると、ちいさな教会に出た。門には白い看板があった。
「どうぞ、ご自由にお入りください。教会の中ものぞいてください」
入っていいんだ・・・。門を入ると、デージー、パンジー、忘れな草などが咲く、かわいい庭があり、4人がけのテーブルが並んでいる。石の回廊を歩いた先に、教会の扉があった。木造の大きな扉で、わっか型の鉄の錠。ぎぎぎー。そっとあけると、ユリの花のむせかえるような香りに包まれた。白いユリ。誰もいない。響きわたる賛美歌。私はその荘厳さに圧倒されて、しばらくの間、立ちつくし、ユリの香りと美しい歌声に心をゆだねていた。木のベンチには生花のユリが飾ってあった。ひと束ひと束、ベンチのバージンロード側の端に飾られている。祭壇のそばには30輪はあろうかという大輪のユリの花が壺に生けられていた。香りはこの花々から立ち上っていた。なんて、贅沢な。本物かしら。花びらを触ってみた。やわらかい。やっぱり本物のユリだ。素朴な、ちいさな教会だけれど、生花のユリを教会いっぱいに飾るような、優しい心のオーナーなのだろう。新しい町で初めて入った教会はユリの香りで満ちあふれ、私を迎えてくれていた。ここに引っ越してくるまで不安だった。決断が正しかったのかどうか、わからなかった。そこへ、この純白のユリのお出迎え。「大丈夫、ようこそ、いらっしゃい」と、この地の神様たちが言ってくれているような、祝福の花束をくださったような気持ちになる。ここで生きていっていいんだよ。そう、大いなる天からGOサインを出されたような気持ちであった。
数日経って、再び、ユリの香りに満たされたくて、教会に入った。あれ・・・。香りがしない。白いユリは造花だった。ユリの香りと思っていたのは、木造建て独特の木の匂いのようだった。あの日に私を包んだ、むせかえるようなユリの香りも、花びらの感触も偽物だったのだろうか。それとも、この地に暮らすことを決めた私への神様からの贈り物―命あるユリ−だったのか。どちらにしろ、この教会は私の憩いの場所になり、時々訪れるようになった。ステンドグラスは美しく、賛美歌は心おだやかになる。誰もいない祭壇に座り、しばらく時を過ごすひとときはきっと、かけがえのないものになっていくだろう。何年も経った時、新しい私をつくりだす大切な時空として、忘れられない存在となるだろう。